このウェブサイトでは、ヴァンダ・プランツニツカの著書、「霊に依る憑依〜 21 世紀の除霊」からの引用文が見つかります。
これより私は、死のカーテンの向こう側へ渡る事を拒否した魂を幽霊と呼びます。肉体の死の瞬間から暫くすると、幽霊は生力の低下に気付きます。しかし、どこでそれを補えるのか全く知りません。他の幽霊と接触があれば、それを見習う事も出来ますが最初は仲間がいる事にも気付かず、独りぼっちになります。幽霊は、弱って行き感情も無くなって、思考もままなら無くなって来ます。其処で、自己保身の本能が働き始めます。幽霊がエネルギーを補給出来る場所がこの世には沢山あります。水が供給源であったり、地殻断層から補給したりします。
こういう場所を自分で見つける幽霊もいます。死のカーテンの向こう側では、何の憂いも無く、壮大で愛に満ちた生活が出来たであろう事を彼らは知りません。チャンスが到来した時、彼らには神を許す事の価値を認める勇気がありませんでした。自分自身を許す事が出来ず、罰を恐れたため、死のカーテンの向こう側へ行けなかったのです。
死の瞬間にどう許したら良いのか分からなかったので、彼らに対しドアは閉まったままだったのです。時たま先に逝った、一番親しくて愛情を持った魂が、死のカーテンのこの世側で彼らを見付ける事があります。そういう魂が、その迷っている幽霊をとても愛するが故に、「楽園」を辞去する事がよくあります。その時彼らは、カーテンを越えて迷う幽霊を救う為に自分のバイブレーションを下げます。捜索は長引く事もありますし、全く成果が無い事もあります。何故なら成仏した霊が降りて来るのは不自然な事の成り行きであるからです。そして、この世の人々の供養の御陰で守護霊が助けに訪れ、あの世に連れて行く事もあります。除霊も効きます。私は数百年間あの世とこの世の間を彷徨い続けた幽霊に出会った事があります。千年以上前に死んだ者もありました。通常、こういう霊は他の霊があの世に導かれている時に、ほんの偶然で導きの援助を受けます。
多くの幽霊は、何からエネルギーを取ったら良いか分からないので、盗む決心をします。何の呵責も感じない者もいますし、後ろめたい事をするのを悪く感じる者もいます。悪く感じる幽霊は、特定の人には付かずに色々な人達から生気を吸い取ります。人の沢山集まる所には大抵います。この世に残った幽霊は全て、この世で機能する為のエネルギーの供ಊ#32102;源を探さなければいけません。彼らは神にお願い出来るのに、お願いしたくないか勇気が無いかのどちらかで神頼みはしません。動物、人間又は、植物から盗む事を好みます。
この事がどういう風に見えるか分かり易い様、深海のダイビングと比較して説明しましょう。最初は、美しい景色を見て気分も最高だし、私達は永遠に水中に留まる決心をします。これが自分にとって不自然な環境であるとは思いもしません。
私達は自分が見たい物だけを見ます。「此所は素晴らしい、でも水の上には楽しい事なんて無いなァ、罰まであるし、もう思い残す事は無い、よしっ私達は此所に残ろう」なんて思ってしまいます。自分だけで暮らせるし、やっと自由で幸せになった、おや、これは何だ?段々と息が吸えない事に私達は気付きます。これは、思っても見なかった。自然を欺こうとも思いますが、自然は私達よりも遥かに利口です。乗って来たボートも流れてしまった事でしょう。何処で、息が吸えるんだ?もう時間がないので、死の恐れが迫って来ます。すると、魚が泳いでくるではありませんか、これは一つ魚から酸素を吸い取れないかと思います。出来た、ヤレヤレだ。又、息が出来る。空気を吸い続けていると、このままでは魚の中に直接入り込む事以外息をする方法が分からないのに気付きます。自分が魚になってしまった訳では無いし、寄生している宿主を通じて少なくとも暫くの間は生活出来て奇麗な風景も見られるその上、嫌な罰も受けなくて済むじゃないか。
カーテンの向こう側に行かない決心をした幽霊は、大抵遺族の元に返って来ます。その家庭には悲しみが満ち、皆混乱し、打ちひしがれ、寂しく生活をしています。時間を巻き戻して、愛する魂をもう一度生きて呼び戻せるのだったら、悲しみに暮れる遺族達は何でもするでしょう。こういう風になってしまうと、魂は旅立てなくなります。「
何処にも行かないで、貴方無しでどうしたら良いの?」私達は泣いて一家で死者に懇願します。これは、生命に対して取る非常に自己中心的な態度であり、死の根本的な意味の理解不足であることを示しています。喪失感に打ちひしがれて、悲しみに圧倒されてやってしまった事だと、貴方は言われるかもしれません。逆上して、我を忘れて、何も考えられなかった。貴方のそう言う思いを私は完璧に理解しています。私だって母の死後六ヶ月は、生きて行くのも辛かったのです。母の取った態度と、この世に自分を閉じこめておく理由等何も無いという母の要求が無ければ私は多分母のあの世の旅立ちを許さなかった事でしょう。
多分、母の臨死体験の様子を思い出して頂けると思います。母は、死の淵から戻って来て私が母を逝かさないものだから自分は死ぬ事も出来ないと、私を窘めたのです。私は、母をとても愛していたので、引き止める事を諦めました。私は母を手放しましたが、本当に辛かったのです。余りに深く母の死を悼んでいたので、当時生まれたばかりの娘と、六才になる息子がいなかったら、私にとって世界は何も意味の無い物になっていたでしょう。私の小さな子供達そして、どうやって子供を面倒見るか、それだけが私にとって大事な事でした。何も手に付かなかった事以外で私自身や私の周りで起きていた事なんて全く思い出しません。
悲しんではいけないと言っているのではありません。悲しみは思う存分鮮烈に味わうべきです。それは、精神衛生の為にも重要です。今まで扱わなくても良かった問題の塊と共に取り残されて、悲惨で途方に暮れているのですから。ですので、出来るだけ多くの時間をかけましょう。それは、自分の事だけと同じ様な状況にいる人の事だけを考えれば良い時間です。しかし、自分の意志に反すると感じたり、自分の中の文字通り全てがそれに反抗したりしたとしても、私は断固として魂を旅立たせてあげて下さいと貴方に申し上げます。
幽霊が死のカーテンの向こう側へ行かず家族の元へ戻って来て、家族もその人に帰って来て欲しいと望んでいる時、エネルギーの補給には何の問題も伴いません。幽霊はその家庭の誰かにくっ付いて、その人から生力を吸い取ります。遺族は、悲しみに打ちひしがれているので、幽霊が取り付いてしまった事に気付くどころではありません。気付いた時には、もう対処するには遅過ぎます。幸運にもこれは、大人にだけ当て嵌まる事です。子供の殆どが、神の発する特別な防御を受けてこの世にやって来ます。しかし、残念ですが、稀に幽霊が子供の小さな体から生気を盗み取る例もあります。こういうケースの大部分を『同性愛』と『精神病(自閉症)』の章で解説します。
普通の精神状態の人は幽霊に生力を取らせたりしません。増してや、憑依を許すなんてとんでもありません。幽霊にはこの事が分かりますので、永遠に蛭の様に生気が吸い取れる相手を探します。弱い人、病気の人、年寄り、アルコールや麻薬の依存状態にある人々、疲れた人、寝不足の人、不安な人、落ち込む又は恐怖する人々から、幽霊はエネルギーを盗み取ります。言い換えれば、こういう人達は、彼ら自身既に力尽きている人達です。こういう人達は幽霊の活動に気付づいて、適切な対処をする状態に無いのです。こういう人は大抵、自分にはお連れさんが付いていて、神が毎日くれるエネルギーを分けてあげている事に疑いも持ちません。彼らは、理由も知らない内に健康と力を失くします。
こんな事をしているうちに、幽霊は深刻な病気や、時には死に至る疲弊を肉体に与えます。幽霊はいつも人の外にいますが、うっかりと中に入ってしまう事もあります。それはあたかも、幽霊が秘密の入り口に歩いて行って、間違ってドアに寄りかかったら開いてしまい、図らずも中に入ってしまう様なものです。こうして人は、計画も予期もしていない幽霊に取り憑かれてしまいます。
わざとこの世に残って、肉体を要求する幽霊もいます。くっ付いてエネルギーを吸い取るだけでは、こういう幽霊は満足出来ません。人の世で機能する肉体を彼らは要求してきます。そこで、この種の幽霊は肉体を強奪出来る犠牲者を物色しているのです。憑かれた瞬間から、その人の中には自分の魂以外の人の霊が入り込みます。一個人の中に、数体どころか十数体住み着くのも珍しい事ではありません。大抵、中の連中はお互いの事は何も知りません。憑かれている人も幽霊が憑いている事は何も知らないでしょう。
近くにいる人が直ぐそれに気づくでしょうが、その人はそんな事は全然信じないでしょう。一個人の中に数百体もある事もあります。聖書は、こういう数の事を「レギオン」と呼びます。
幽霊が頑健な人物に憑く時、初めそれは見過ごされてしまいます。その人は体力の低下を意識する様になりますが、恐らく天気や働き過ぎの所為にするでしょう。数体の幽霊が憑く場合は、症状が違って来ます。その人は、無表情で、緩慢で何もやる気が起きず、短気になります。時には、病気になったりもするでしょう。しかし、初めは自分の異常に全く気付きません。
幽霊は、頑健な人から生気を吸い取るか、そういう体に入り込んで活動する事を好みます。多くの人がどうやったら幽霊は人の体を乗っ取れるのか聞いて来ます。それは大抵、手術を受けるときの麻酔で気を失っている様な時に起こります。幽霊にとって都合の良い他のチャンスは、頭を打ったり、事故の後衝撃を受けたりして人が気を失った時です。アルコール飲料は全て幽霊への格好の誘い水です。若者の薬物使用が増えていますが、これも憑依霊に門戸を広く開けてあげる事になります。煙草を吸う時のほんの一寸の意識の変化さえも、幽霊を憑依し易くします。時たま、私達は病気になって引っ込みがちになったりしますが、こういう時も無意識に幽霊の侵入を許しています。喪中、死者に対する悲しみに沈み、殆ど絶望に近い時、私達はあの世への扉を開いてしまいます。こう言った時、私達は幽霊の一団に憑かれてしまう事があります。降霊会(こっくりさん等)で遊んで、万が一それについて無知であった場合、幽霊は恒久的に参加者の体及び、精神に侵入して来ます。召還した霊に帰ってもらう方法を知らなければいけませんが、こういう降霊会を催す人達はそれを知りません。
生半可な知識でタロットカードリーディングをしたり、間違った方法で瞑想をしたりして簡単に取り憑かれてしまう事もあります。感情の抑制が出来なかったり、怒りや憎悪に対して共鳴したりする傾向があると、幽霊は大抵その人のお供になったり、取り憑いたりします。幽霊が人のお供になるのは、エネルギー補給の方法がそれしか無い様に思えるからです。幽霊は悪い事をしている意識はあるのですが、そうしないと生きて行けないとか、やりたい様に力が出ないと思い込んでいます。これは自己保身、生き抜く本能でやっている事なので、多くの人が思う様に悪意でやっているのではありません。
人の中に入った当初、人が新しい状況で感じる様に幽霊はぎこちなく感じます。どんな風に振る舞ったら良いのかそして、何処まで#12420;ったら良いのかも分からないので、ただ実験をし出します。どんなタイプの幽霊がどんな人に憑くかが大きく関係しています。幽霊はそれ自身の性質に似た人を探します。生前、攻撃的で向こう見ずな人間であったら、そういう傾向がある人を探します。「似た者は似た者を引き寄せる」の法則が此所でも働きます。憑依された後、狡い者は更に狡く、嫉妬深い者は更に嫉妬深くなります。全ての人格傾向がもっと強くなって行きます。ですから、最初の段階で異常に気づくのが難しいのです。例えば職場で誰かがある同僚の振る舞いに対してもの凄く動揺しているとします。人は、その原因を状況 — 此所では、問題
の言動がある同僚の所為にして、幽霊の関与はまず疑わないでしょう。人が自分と違った性質の幽霊に憑かれた場合、話は違って来ます。欠点が浮き彫りになって来る事はありませんが、その代わり今迄になかったものが浮上して来ます。
又、幽霊に憑依された人に現れる共通の特徴は、神経過敏、喧嘩っ早い、たまにまるで予期しない時に激怒して襲って来る等が見られますが、逆に動作緩慢、全てに対して熱意が無い、直ぐ泣く等の特徴も見られます。非常に興奮したり、物事の暗黒面を見て落ち込んだりして気分の揺れ幅が大きくなります。今まで精神も肉体も強かった人が、どうして良いか分からなくなります。自分自身にも、近親者にも辛い状況です。