このウェブサイトでは、ヴァンダ・プランツニツカの著書、「霊に依る憑依〜 21 世紀の除霊」からの引用文が見つかります。
病気になって人が死ぬ時、死は自動的にその人を病気から解放してはくれません。その人達は死後も生前同様病気の儘です。死ぬ時、人は肉体を墓の中に葬り去りますが病気であった事実が書き残してある部分も含めてその他の体は全部残ります。死のカーテンの向こう側に渡る時(成仏する時)だけ完治が起こります。検疫期間とも言えましょうか、その期間は個人が必要とするだけ続きます。その人の精神状態がもっと長い期間を完治に必要としているのなら、好きなだけ長い静養期間を頂けます。その人の必要に沿って、個人的な治療が為されます。こう云う治療は、死のカーテンの向こう側に行った時(成仏した時)だけ受けられます。もし、その人が諸事情で光の中へ渡らない決心をすれば、精神及び肉体的困難を持った儘幽界に留まります。
死因となった病気は生前と同じ様に体の中に存在し続け、この世に居た時と同じ様にその人を苦めます。あの世に渡れば癒され、この世に残れば病気は続きます。
自分が愛しそして、親しかった人が長く続いた重篤な病気で死ぬ時、私達は信じ難い程の悲しみを味わいます。出来るだけ長く病人に生きていて欲しいと思います。そしてもうその人には会えないのではないかと云う恐怖を感じます。しかしそんな事知りたくも、思い出したくもない時であっても、その考えは間違いです。最終的に死に直面した時、私達は最悪に悲しくなり、心も絶望でボロボロになり、とてもではありませんが死者を送り出す心境には大抵なれません。可成りの割合で、自分も一緒に愛する人と死にたくなります。打ちひしがれて、周りの物が見えなくなっている時、私達は物事に対して肯定的に向き合えませんし、自己保存の本能も失ってしまいます。
これは旅立つ魂と残る我々の運命を決める決定的な時です。何故でしょうか?理由は沢山有ります。その理由の一つは、私達がその人を手放したく無いのでしがみ付き、その魂は居残りを強制された上に雁字搦めになって昇天出来無いと云う事実が在ります。もっと分かり易く言いますと、私達の悲しみが足枷となって魂が其処から抜け出せません。愛情に依ってそれをしている様に思われますが、それは愛情でも何でも無く、魂を牢屋に繋いでいるだけです。本当の愛は、放つ愛です。死の瞬間さえも、どんな状況でも解き放つ愛です。愛の名の下で、人の自由を制限すると何か良い事をした気になります。最初、私達はそんな妄想に浸りますが、死者を引き止める事は旅立とうとしている魂だけでは無く、何にも増して自分達に害を及ぼします。
幽霊が自分又は、家族の一員に侵入してきた時、感じられるサインと云う物は殆どありません。性格が少し変わるでしょうが、未だ皆死者の事を考えているので、気付く事は無いでしょう。自分が変な事を仕出かす前に、周りの人達が気付くかもしれません。もし、憑依が頭に来て精神に異常を来たしたら、最終段階に於いてだけ自分はそれに気付くでしょう。周りの人が自分にその事を言って来ても、自分はそれを否定し、幽霊もそれを打ち消す手伝いをするでしょう。
他人が言っている事を打ち消し、疑問を唱えて疑わせているのは、中に居る幽霊だと云うのが本当なのです。これは自分の精神の中だけで起こる事です。暫くすると、他人の言う事がもっと疑わしくなってきます。実際、近親者がそれについて何て言えるでしょう?例えば死んだお爺さんが中にいるなんて言うのでしょうか?中のお爺さんは、自分が生き続けている事は知っていますが宿主と云う他の生命に寄生して生きているので、その事実を指摘されれば全てを否定するしか無いのです。これは幽霊に悪意があってしているのでは無くて(悪意がある場合もありますが)、一つの事象を二つの異なった観点から見ているのです。生きている自分達には故人はもう生きていませんが、中の幽霊にとってそれは明らかに間違いです。其処で幽霊は、自分が死んでいると云う間違いを無理にも否定するのです。
又、幽霊の性格の或る側面も現れるかもしれませんが、生前幽霊が病気に罹っていたら、同様の症状は憑かれた人にも現れます。医者はそう云う現象を一族や遺伝の傾向と呼ぶでしょう。その様な病気が血族間で起こると考えられるのは、(これはその仕組みの例ですが)先ずお婆さんが心臓病に罹りまして、死んだ時に成仏出来なかったものだから娘の中に侵入します。更にその娘は、母親を喜んで受け入れ、結果として彼女も心臓病に罹って間もなく死んでしまいます。そして今度はこの娘の息子が心臓病に罹ります。この一連の出来事を普通医療の目から見ると、これは遺伝的疾患と云う説明で片付いてしまいます。しかし、近くに寄ってもっと良く見てみると遺伝的でも何でも無いのです。病気の種類には何の意味もありません。全てのケースで、全く同じ事が起こります。
一卵性双生児の一人が、癌になってしまいました。彼は未だ若く非常に美しい男の子で、彼がこんなに早く死んで行くのを見るのは、まるで胸が張り裂ける様な事でした。病気は六ヶ月弱続きました。春に彼は、精鋭陸軍連隊に昇進してクリスマスの前に亡くなりました。軍隊に入ったときの身体検査では、彼は完璧に健康だったのです。
私が助けに呼ばれた頃には彼はもう数回手術を受けていて、末期症状に入っておりました。私は病気の原因が、癌で死んでそれ程時が経っていない彼の小父さんである事を突き止めました。この若者は、私の診断を出鱈目だと言って取り合いませんでした。生前小父さんは、自分の事をとても可愛がってくれていたので、自分に危害等加えるものかと云うのが彼の主張でした。彼はどんな説得にも応じませんでした。私は似た様な強い反発を他の患者さんからも常に受けていたので、彼が取った態度は私にはとても良く理解が出来ました。しかし、彼の家族は私に助けを求め続け、小父の幽霊を除霊した後は常に症状が劇的に回復した事もあり特に熱心に要請をしてきました。病院の医者もこれに気付いて、「健康人から病人」の変化に困惑していました。あの若者が望めば、助かっていたかもしれません。これは、彼が死にたがっていたと云う意味ではありません。彼は生き伸びたかったのですが、状況が彼にとって困難過ぎて間違った所に救いを求めてしまったのです。自分を神の御手に任せる代わりに、小父の幽霊に身を任せてしまったのです。折角小父を除霊しても、その若者が呼び戻してしまうのです。彼にはもう全快して生き続けられる事が信じられなくなっていて、痛みが堪え難くなると必ず、「小父さん、助けて!」と大声で叫んだのです。昼夜付き添っていた彼の家族は、彼を抑え込みました。どうにかしてこれを止めさせようとしました。彼の双子の弟は、何が起こっているか家族の中で初めに理解した人で自分の兄を救おうと一番努力をしました。残念な事に、彼を救う事は出来ず、彼は亡くなってしまいました。
彼の死から程無くして、今度は生き残った方の弟に腫瘍が現れました。しかし、弟の方は自分の兄の病気を通して知識を得ていたので、私に助けを求めて来ました。
綿密に調べた結果、最近死んだ双子の兄の幽霊が、彼らの小父さんがしていたと同様にその子に入り込んでいたのです。彼は兄の死を悲しみ、兄を恋しがってはいましたが、今死ぬ訳にはいきませんでした。彼は生きる事をとても強く希望していたので、私がやる様に言った事は全て従順に守りました。私の仕事の邪魔にならなかったばかりか、自分で幽霊にもうこれ以上自分に禍をもたらさない様説得しました。しかし、小父とその甥の幽霊は、彼を自分たちの世界に執拗に連れて行こうとしました。全く彼の双子の兄のケースと同じ様に、幽霊が戻って来ると腫瘍が現れ、去れば即座に消えるので、幽霊の有無はそれを見れば誠に明白なのでした。これが何週間か続いて、幽霊の訪問に徐々に間隔が空いて来て、終には全く戻って来なくなったのです。同じ病気に彼の兄が罹りましたが、彼は死人の辿った途を踏襲しなかったのです。全く彼の兄の場合と同じ様に病状の進行が非常に速かったにも拘らず、医者がどんなに説得を試みても、彼は手術と放射線療法は受けませんでした。彼は病気を抱えた幽霊の憑依が問題である事を知っていたので、幽霊に立ち向って勝利したのです。でもそれは、彼が自分の兄を愛していなかった訳ではありません。彼は本当に自分の双子の兄を愛していましたが、あんなに若くしては逝きたく無かったのです。それに加え、彼は自分が死んだら、今度は自分が次に生きた人間の犠牲者の病因となり得る事実に気付いていたのです。彼は家族の中で一番重要な人物であったとはいえ、彼自身の為だけではなく家族の為にも、そして自分を脅かしていた幽霊の為にも戦って勝利を勝ち取ったのです。
もし、この弟が助かっていなかったら、この病例は遺伝疾患で片付けられ、皆不安な気持ちで次の犠牲者が誰になるか問わなければならない状況になっていたでしょう。この仕事をしてきて、私は遺伝の理論を覆してしまう様なケースを沢山見て来ました。除霊後、幽霊は永遠にいなくなる事もあります。
しかし、私は霊が原因の病の理論が当て嵌まらない処に間違った希望を与えたく無いので、ここではっきり言わせて頂きますー病気全部が幽霊によって惹き起こされている訳ではありません。家族に災いしていた幽霊を全部祓っても、病気が続く事もあり得ます。患者さんとその家族は不満に思う事でしょう。しかし、そう云う状況にあっても患者さんが前よりも良い状態にある事はご理解頂かなくてはなりません。それは幽霊から解放されたので、患者さんは病気と闘うエネルギーをもっと保持出来るからです。前までその患者さんは常に生力を吸い取る一体又は、数体の幽霊の重みに耐えながら、病気とも闘わなければいけなかったのですから。除霊後患者さんは、余計な重荷無しで、病気と闘って行けるのです。