このウェブサイトでは、ヴァンダ・プランツニツカの著書、「霊に依る憑依〜 21 世紀の除霊」からの引用文が見つかります。
残念な事に、肉体を抜けた殆どの魂は、死のカーテンを潜りその向こう側へ行きません。悪い事に、あの世とこの世で彷徨っていて、諸々の理由で神の元に召される事を断念してしまった魂の数は、どんどん増えています。これには沢山の理由がありまして、順を追って説明します。
一番重要な要因は、霊が死後、自分が死んだ事に気付かないか、それを信じない事です。彼らにとっては、何も変わっていないのです。死の瞬間が分からなかった事で、まだ生きていると思ってしまうのです。彼らは、光りに行ける(成仏出来る)という事に気付きません。生きていると思う事で、自分はこの世に属しているものだと仮定してしまうのです。重い病気を患っていたとしても、又良くなったと思ってしまいます。もし、老衰で寝たきりだったとしても突然若返る、又は少なくとも生気と力を与えられた様に感じます(これは、肉体を脱した初めの瞬間にだけ起こります)。彼らは、物質世界だけを見て、其処でやって行けると思ってしまいます。同じ状況にある他の魂は、眼中にありません。
隣合わせで共存しているこういった霊の数は非常に多いのですが、大抵長い間、お互いを認識しません。物質界で過ごす全ての時間が、生前の如くに自分は生きていると思い込ませてしまいます。自分は存在しているという認識が、増々何も変わっていないと思わせてしまうのです。こうして、彷徨える霊の一団は人生ごっこをして幻想に生き続けているのです。私達の父、母、兄弟、姉妹、愛しいおばあちゃん、おじいちゃん、友達、隣人、学校か仕事での同僚と、何時も迷っている霊は私達の身近な人々です。私が、「自分が死んだ事分かってますか?」と聞くと、彼らは大抵驚いて、「知らないですよ、私、死んでるんですか?」と返して来ます。これを聞かれた瞬間は、彼らにとって相当のショックです。無理もありません、死後の世界は、死んだと思えない程現実的だと誰も教えてくれなかったのですから。同じ事を私は何千回と聞きました、そして今でも毎日の様に聞いていま#12414;す。残念ながら、この問題について大きな認識不足が横行しています。
この本を書く決心をした理由の一つは、その知識を人に与え、私達が最重要な事柄を理解出来る様にする事でした。私の仕事は、読者自身或いは、その近親者があの世に旅立つ準備をするのを応援する事です。私達は皆、遅かれ早かれ死の問題に面と向かわなければならないのですから。
東洋の文化では、日常的に死後何が自分達を待ち受けているかを語り、それは全く普通の事となっています。子供さえも話に加わります。こういう態度で死に臨めば、死んだ後に吃驚する事はありません。西洋の文化にこの習慣が受け入れられれば、とても有益なものとなるでしょう。理解できない状況で立ち往生し、途方にくれ、孤立し彷徨っている霊の数が可成り減る事でしょう。
もし、日常で話し合えないのであれば、この話題を持ち出すのに一番良い機会は重い病気です。もし、その人が死んだら何をしたいかを話させる事は、とても重要です。社会の常識で私達は、病人と死について語る事を躊躇してしまいます。それは第一に、私達は病人を怖がらせたく無いですし、それは不適切とも思われ、病人が自分を何と思うか心配してしまうからです。遺産相続が絡んでいる場合もあったりして、病人と出来るだけ仲良くしておいた方が何かと良い事もあります。自分が病人の死を望んでいると思われてしまうのを恐れる場合もあるでしょう。しかし、この問題をきちっとしておく機会は他にありますか?
私は、風やインフルエンザの様な病気を言っているのはありません。もう治る見込みの無い病気を言っているのです。死について語ったからといって、病人が直ぐ死ぬとは限りません。「自分が死んだら一体何が起こる?」の様な質問の答えに繋がる様な話し合いが必要です。死が近くなれば、近親者や医者がどんなに嘘をつこうと、本人は潜在意識のレベルで分かっています。死について語る事は、死に逝く人にとっても、この世に残る人にとっても同じ様に重要です。この事について後でもっとお話します。
死人が、自分が死んだ事実を無視してしまう主な理由は、死後の自分の存在自体にあまり変化が無いからです。知識があれば、自分の死を理解する事も気付く事も簡単ですし、新しい状態に直面した時に驚かずに対処出来ます。生前、死後の世界を否定していた人々は、もっと酷い状況に陥ります。死んだ事に気付いたとしても自分でこれからどうやって行ったら良いか分からないのです。長年病床にあった若しくは、老齢であった霊にとっても、死は受け入れ難いものです。
と言う事は、突然予期しない死に遭った霊はどうなってしまうのでしょうか?人生の最盛期にあの世に渡ってしまった人は沢山います。彼らは、生前死について考えた事等ありませんでした。若く健康でありながら、
突発事故とか、前兆となる症状も無く、考え込んで
いる暇も無く、突然逝ってしまったのです。
車の事故、飛行機の墜落、登山の失敗等で突然死を遂げた人々です。生と死の間に瞬きと同じ位のほんの小さな瞬間があってそれを捉える事ができなかったのです。もし、死後に起こる事の知識があったなら、もう生きてはいない事実を受け入れる努力も出来たでしょう。彼等は、誰が何と説明しようと自分が置かれた状況を頑として受け入れません。なぜなら、多くの者にとって死は全ての終わりであって、その先はあり得ないからです。
幾人かの魂は、死のずっと前から酷く混乱しています。死を通り抜けた時、自分が本当にどういう状態になっているのかが分かりません。こういう魂は往々にして不治の病で強い痛み止めを使用していたか、薬物或いは、アルコール依存症だった霊です。痛み止めを服用していた病人の精神は、薬物中毒者の精神と似ています。意識を取り戻しても、死後の人生の知識は全く持ち合わせていません。この知識の欠落の結果は後でお話しします。
魂が光の中に行かない(成仏しない)別の理由は、生前やらかしてしまった事で罰が当たるのを恐れる事です。罪自体は大した事は無いのに、生前、残酷で、執念深く、罰を与える神の存在を信じていたからです。すると、自分は許される資格が無いと感じてしまうのです。
守護霊と近親者で編成された壮大な先導集団と愛に満ちた光が待受けているのに、それに背を向けてその先へ行く事を断念してしまいます。彼らは、神が自分の罪を許してくれると信じません。これは、自分自身が許せないので、そうなってしまうのです。
死の瞬間は、天国行きの電車の様な物です。有効な切符がある人だけがそれに乗れます。自分が天国に行く資格があると思う人が、切符を手に入れます。その他の人は、ホームにとり残されます。自分をどういう風に捉えていいのか分からない霊の集団を置いて電車は発車します。乗車の招待も受けていたし、旅立つ事は出来たのです。でも、彼らは乗りませんでした。罰が怖かったからです。旅立ちを邪魔する彼らが罰に値すると思う過ちは、本当に色々なものです。破った約束、ローンの滞納、日曜のミサの前に絶食を怠った事、あらゆるインチキや腐敗から、強盗、犯罪、強姦や殺人と、最も凶悪な罪に至るまで全部です。罰への恐怖と同じ数だけ幽霊がいると言う訳です。
そして、この世と天国の間の道には、小さな過失から大きな罪を背負って、気に病んでいる霊達で溢れています。自分を許しさえすれば、神はその人の罪をお許しになる事を信じません。「どうしてそうなの?」と貴方は言われるでしょう。それは、神は私たち全員に自由意志をお与えになったからです。もし、自分のしでかした悪行の為に、罪の意識を感じて常に自分を罰したければ、そうして構わないのです。神は、私達の意志に反する事は一切為さいません。しかし、罪の意識から自分を解放した瞬間、私達は光の中に行ける(成仏出来る)チャンスを手にします。幽霊にはこの認識がありませんので、もう時既に遅しと言って諦めてしまいます。彼らは、酷い罰が煉獄や地獄の形で待っていると邪推したのです。
そして、何としてでも地獄に行く事を避けたかったので、死のカーテンのこの世の側に居残ってしまったのです。しかし、この世に残った事で彼らが一番恐れていた煉獄や地獄を自分で作り出してしまった事に気付きません。
では、自身の良心にとって深刻な過ちを犯した魂が自分を許して成仏したケースがありますが、それは一体どういう事なのでしょうか?それは、魂が自分、他人そして、神を愛せたか否かに拠ります。もし、その人の心が生前、失望、悲しみや落胆で満たされていたら、その人には愛する余裕等無いでしょう。愛は、人の心の闇を照らす物の実体です。愛は、人に力を与えます。自分を愛する人は、他人を傷つけません。こういう人は、周りの人から愛されます。そして、彼らは神が自分を愛している事と、神が良き父親であるが如く子供達を許してくれる事を信じています。
自分を愛さない人々は、他人も愛せません。彼らは、自分を含む全てを軽蔑しています。そして、神も憎んでいます。彼らは自分を悪い人間と思い込んでいて、周りの人の中にも悪を見つけ、悪い事をします。自分が悪い物なので、それを作った神も悪いに決まっていると思っています。こういう人に、許しはありません。許したくもないし、神は愛であり全てを許すという新しい考えを受け入れません。愛が何かと言う事が分からなくて、どうしてそれを信じる事が出来ましょう?愛は神です。しかし、彼らは神を信じていません。愛と神の無い世界は、残酷の他の何物でもありません。残酷な現実に住むと、人は自分にも他人にも残酷になります。こういう人は、許さず、同情せず、「目に目を、歯には歯を」の原則を貫きます。そして、「愛は弱さ」という悪循環に陥ります。皮肉ではありませんか、善の世界で最強である物が、悪循環の世界では弱さとして捉えられているなんて。
この悪循環はいつか破壊されねばなりません。そして死は、その為の素晴らしいチャンスです。死は、自分と他人、そして神をも許す為の時間です。生きて此所に残っている私達には、自分を許すチャンスが有ります。神も私達を許します。その人がもう此所にいなくても、私達はその人を許す事が出来ます。遅すぎると言う事は絶対にありません。この様にして私達は、死に逝く人だけを助けるのではなくて、何よりも自分が助かる事になるのです。後程この事に付いて説明します。
その次に大きな居残りの霊の集団は、生前、無神論者だった人達で、そういう魂は死後、何にも頼る事が出来ません。彼らは、人生は墓で終わり、その後は無という底無しの穴があるだけだと思っていた人達です。それから、その他のタイプの居残り霊は、生前神を信じてはいましたが、霊は「最後の審判」の日まで寝ていて、死からの復活の後「天国」に行く事を信じていた人達です。彼らは、生前入信していた宗教が殊更に主張していた教義を信じて犠牲になった人達です。彼らは騙されたと思っていて、自分でどう対処したらいいのか分かりません。審判を待った方が良いのか?罰を待った方が良いのか?でも何処で?墓の中で?彼らは、死後も生きている訳ですから、何もしないで待っている訳にはいかないのです。死んだ後ちょっと遅くなってから彼らはその事に気が付きます。「何が遅すぎるの?」と思うでしょう?光の中に行く(成仏する)のに遅すぎるのです。肉体の死の瞬間に行く所を決めるべきだったのです。
このタイプの霊のグーループは生前、将来に対し慎重過ぎてしまう所があって、死後の生活は絶対こうあるべきだと計画し、最後の審判までは寝ている筈と計算していた人達です。彼らは生きている間に、自分や近親者の為に納骨堂や派手な記念碑を作り、棺桶の中で一番良く映える為に棺の中で何を着るのかまで決めていたのです。何人葬式に来るか、追悼の辞を読む時に何を言わせるか等も考えていました。
居残りの霊達には、人間に空気が必要である様に、存在する為にエネルギーが必要です。そこで、彼らは墓所を歩き回って、墓参りをする人からエネルギーを盗みます。冗談の様に聞こえるかも知れませんが、冗談で済む事ではありません。死人が墓から出て来るなんて怪談話は彼らの事です。この類いの霊達は、肉体はその人自身では無いのにも関わらず、肉体が自分であると強く思っています。
こうして、非常に多くの霊が前に進む事を止めてしまいます。死後本当に起こった事がショックだったのです。もう、あの世に行くのには遅すぎるので、どうしたら良いのか途方に暮れてしまいます。そして、人から生気を吸い取るか、永続的に人に取り憑く他に出口は無くなってしまいます。
それから多分、死後幽界に残り続けてしまう一番大きな霊団は、生前世俗的な物に固執して、それから離れられない者達でしょう。固執の対象は物質である事もありますし、物質で無い事もあります。家、車その他の所有物であったりします。誰でも幽霊屋敷で霊が人を怖がらせる話を聞いた事があると思います。その他は、食べ物、酒、薬物、セックスやギャンブルに耽溺する人達もいます。後、身内や愛する人が決めなければいけない事を自分が決めていて、何にでも首を突っ込む癖があった人は、自分の権威を手放せません。
他の居残りの理由は、生前に犯した間違えを正したい欲求です。こういう霊は、居残っていれば、失敗をやり直す機会があるだろうと思っています。
呪いや、黒魔術を掛けられて、安らかに逝けなかった霊もあります。又、他の大きなグループには、自殺者のグループがあります。
或る霊は、面倒を見なければいけない人(それは、自分だけの意見に過ぎませんが)がいるので、この世を離れられないと思っています。そういう人達は、小さな子供の親であったり、年老いた親を案じる子であったりします。
以上でお話した様な霊は自分で決断して、この世に残るのです。しかし、近親者の悲しみの為、あの世にとても行きたがっているのに行けない霊も可成りいます。こういう霊は、自分にとっての利益と残された者の利益との狭間でどちらを取るべきか迷います。彼らはあの世に行く事が皆にとって最善である事を知っていますが、残された者が引き止めているのです。ですから、喪中であっても自分の悲しみは後回しにして、あの世に行くべき者の権利を優先すべきなのです。私達は、逝く者と残される者両方の害にならない様に、そうしなければいけないのです。私は、母の死で経験したので、それがとても難しい事を知っています。しかし、母は私が引き止めない様に釘を刺す事が出来ました。そうしている人は何人いるでしょう。殆どいないと思います。
死後、人は生前あると信じていた世界が本物となって其処に住むというのは驚くべき事実です。ですから、「天国」があると信じていた人は、「天国」へ行きます。しかし、「天国」へ行く資格が無い又は、自分の過ちへの罰を恐れる人は自分にも、そして身近な人にも「地獄」を現実の物にしてしまいます。